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マレーシアへの移住

<米作の原風景を求めて ~少数民族と棚田~4>

旅行期間:2013/12/28~2013/01/04

12/29(日)6時に目を覚ました。

朝食は6:30からなのでまだ十分に時間はあるのでパッキングを開始する。

他のベッドには人が戻ってきているようだ。欧米人旅行者らしく深夜あるいは明け方まで外で遊んでいたのだろうか。日本では夜更かしする俺だが、海外で旅をする時は割と早起きになる。

レストランは建物の10Fなのでエレベーターで上がる。朝食はビュッフェスタイル。なかなかの充実度だ。この朝食と宿泊で5ドルなのだから安いものだ。上から見るハノイの町並み、どうということのない町だが、ベトナムの首都にしてホーチミン・シティ(サイゴン)に次ぐ規模の大きさは感じた。所謂東南アジアらしい喧噪はないが、その分落ち着きがあって嫌いじゃない。

食事を終え、部屋へ戻り身支度をしてチェックアウト、大きな荷物はストレージルームへ預ける。

意外にも時間通り8時にピックアップが来た。バンに乗り込むと本日の参加者は10人程度か。俺は運転席と助手席の間を指定される。当然ガイドは助手席に座る。これ、1人参加の宿命なんだよね。実際、他に1人参加はいないようだ。アウェーかなと考えていると後ろから日本語が聞こえてきた。どうやら親子連れのようだ。冬休みに家族で旅行に来ているのかな。

全員のピックアップが終わったところで、バンは郊外に向けて走り出した。今回のガイドの名前はSonという。なかなか気も利くし取りやすい英語を話す。今回訪れるニンビンの出身だそうだ。まずは休憩所。ここではトイレ休憩とお土産を買える。お決まりのコースだ。こういう定番のお土産屋に寄るというのはそれだけ観光客が多くてシステムが出来上がっているということ。実際、欧米人観光客は町の至る所にいた。

ここでバンの中で日本語を話すご家族と挨拶を交わした。ケイコさんはイギリス人のご主人(ローリーさん)と結婚し2人の娘さん(ソフィアちゃんと、えーとえーと…)と暮らしていたがつい最近マレーシアはジョホールバルに引っ越したのだという。

マレーシアは日本から移住する国として最も人気があることで知られている。移住に求められる金融資産(要はお金)もそれほど高くはないし、ジョホールバルでは『イスカンダル計画』が進められている。既にアジアの金融センターの地位を不動のものにしているシンガポールと連携して経済開発を進めていくわけだ。ちょうど香港と対岸の町である中国深セン市が香港と連携して発展したのをモデルとしているのだろう。

実際のところ、シンガポールは既に物価、特に居住費が高騰しビザの発給基準も厳しくなっている。要は「これ以上受け入れたいのは優秀な人材だけ」という状態なのだ。人生のリスクヘッジとして、日本以外の国で生活できるようにしておくというのは一つの選択肢だ。個人的には“グローバル経済”には反対の立場だが、現実的に生活していく術を確保しなければならないのも事実。“海外で一旗揚げる”などというものではなく、既に急速に少子高齢化が進みつつある日本からこれから経済が伸びていく国で仕事を探しに行かなければならなくなるという可能性だ。それを行うには早めに動いた方が有利なのも事実。後から参入する場合、障壁が高くなるのは常だからだ。ジョホールバルでの生活事情のお話を今日深く伺えたのみならずソフィアちゃんとえーとえーと…は既に日本語と英語を話している。時期にマレー語も話すようになるだろうし、中国語も話すようになるのかな?※シンガポールもマレーシアも華僑・華人が経済活動の基盤いずれにしても小さな頃から刺激的な生活を送れていいなぁとの感想を抱いた。もちろんそれなりの苦労もあるだろうが。

さて、休憩所を出発して再び走ること約1時間、ハノイから南に100kmの場所ニンビンに到着。これから古都ホアルーとタムコックを観光するのだが、ホアルーは964年に丁王朝が首都を置いた場所。ということで重要文化財を観に行くのである。

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